対象と関係について、より詳細に

考えるとはどのようなことでしょうか?

少なくとも何を考えているのか、明確にする必要があります。それは一人で考えているときはもちろんのこと、他の人と考えを伝えあっている場合にはなおさらです。さらに、何を考えているかについて、その中身はさておき、それを識別する何かが最低限必要となります。それは言葉の名前であっても、音の高低であっても、絵でも、指差しの角度であっても、何でもよいのですが、少なくても考えている何かを特定する、とりわけ他の対象と区別するための違い、識別が可能でなければなりません。

何を考えているのか、前段によってその対象に対して名前、他の対象との識別子が最低限必要ということが分かりました。次に、その対象を考えるとはどのようなことなのかを考えてみましょう。仮に、ある対象を考えているいるときに他の対象を一切考えずに、その対象を考えることはできるでしょうか。例えば、「人」を考えてみましょう。「人は生きる」と考えると、では「生きる」という概念は何のなのか、と「生きる」という考えを対象化して考える必要が発生します。つまり、ある一つの対象を考えるときに、他の一切の対象を考えずにその対象を考えるということはできないということが分かります。つまり、何か一つの対象を考えるとは、他の対象も考えに入れる必要があるということです。

前二段によって、何かを考えるには、複数の少なくとも識別された対象を共に考えること、が必須であることが分かりました。では、何かを考えるときに選び出されたその複数の対象は、偶然に無作為に選出された対象なのでしょうか。仮に、「人は生きる」という考えの「人」と「生きる」という対象が、偶然、無作為に選出されたとするならば、「人」と「絵具」、「生きる」と「紙」という複数の対象は、同じように考えることとして同等と言えるのでしょうか。そこには、明らかな違いがあります。つまり、「人」という対象にとって「生きる」という対象が重要な対象であるからこそ、「人」を考える際に「生きる」という対象は選び出されたわけで、「絵具」や「紙」は「生きる」という対象よりも人にとって重要でない、つまり、繋がり、関係が薄いということが分かります。このように、何かを考えるときに選び出されるその複数の対象は、少なくともその考えに価値を生むには、必ず互いに深い関係のある何かであることが必要であることが分かります。

前三段によって、何かを考えるということは、複数の互いに関係を持つ対象を取り扱うということが分かりました。では、何かを考える、その対象とは一体何なのでしょうか。少なくとも識別となる名前を持っていることは分かりました。しかし、それ以外に、その対象に属する何か、つまり、性質や傾向、様々な情報は、本当にその対象に「属している」と言えるのでしょうか。前三段からすると答えはNOです。それら総ての情報、名前以外のすべての情報は、前三段のように対象化されることによって、その対象以外の他の対象との関係として表現される、否、関係としてしか表現されえないということが分かります。そうすると、何かを考える、その対象は、その名前以外は、すべて他の対象との関係によってのみ表現されるということが分かります。つまり、ある対象は、他の対象との関係によってのみ規定されるわけです。

前四段をまとめると、何かを考えるということは、複数の対象間の関係を考えるということだと分かりました。そして、対象そのものは本質的には、名前しか持たない「空っぽ」であり、対象の本質は、他の対象との関係によってのみ規定されるわけです。そこで、例えば、物事を構造的に捉えようとする立場について言うと、構造とは対象という識別間の関係によって成立していると言えるだろうと思いますし、物事を相対的に捉えようとする立場について言うと、対象は関係によってのみ規定されるので、対象は他の対象によって相対的にしか規定されえないと考えられるのだと思います。

さらに、例えを広げると、ヒルベルトが公理を説明する際に、イスでも机でも公理に当てはまりさえすれば、数学になる、理論は適用できる、旨のたとえ話をしたと聞いたことがありますが、それは、公理によって規定された対象が、公理による対象間の関係のみによって十分に規定されているからこそ、その対象間の関係を満たしさえすれば、イスでも机でも、その後の理論を成立させることができる、という趣旨のことを伝えたかったのだろうと思います。他には、例えば、あまり詳しくはありませんが、グロタンディークの文章を読みかじるところ、彼が数学的な構造において、関係、特に圏論において射を中心的に捉えて思索するのは、前五段の意味するところによるからだと思います。その他にも言葉、論理という枠組み自体が前五段の構成から抜けられないものであるだろうと思われますし、そうすると、物理学的な現象、少なくともその理解には、前五段の構成が必然的に要求されるのだろうと思います。

【以下、追記(2021年8月7日)】
前頁(対象と関係、関係論理)の結語の「すべての対象は他の対象なくして存在せず、他の対象との関係によって規定される。」という結論をより洗練すると、「対象は他の対象の関係である。」という主張になります。つまり、対象は、対象の特徴以外は識別子(あるいは識別子付きの範囲指定、ただし、範囲指定すらその対象の特徴とも言える)のみであり、特徴はその対象と他の対象との関係として捉えられるので、加えて、その対象の存在は対象の識別子以外の特徴たちにあると言えるので、結局のところ、対象の存在は他の対象の関係で構成されていることが分かるということです。ただし、対象を特徴付け不能な何かとする前提を置いた場合には議論は異なるものになるかと思います。

ちなみに、ある対象を自分自身との関係で規定するということも考えられるので、「他の対象の関係である。」の「他の」という点が気になりますが、要はさらに洗練すると「対象は関係である」、つまり、対象の本質、実在、名前以外の何かはすべて関係であるということを主張したいわけです。

あるいは、「自分自身との関係で規定する」ということに疑義を呈すると、この「自分自身との関係で規定する」という前提には、二つのまったく等しい対象の存在があると思うのですが、これはユークリッドの公理「同じものに等しいものは、互いに等しい」も同様に持っている前提だと思います。しかし、一考すると、二つのすべての特徴が等しい対象を考えることはできないのではないかとも思います。つまり、二つであれば何かの特徴が異なり、すべての特徴が等しければ一つであるので、二つであることとすべての特徴が等しいことは厳密には矛盾します。そう考えると、「二つの同じ対象」とは、二つの異なる対象間に一つの等しい特徴が共通してあるという関係を指す言葉とも言えます。つまり、「同じ対象」には二つの異なる対象が前提として必要になります。このように「二つの異なる対象に共通の特徴があること」を等しさ、あるいは等しさの基準とすることを前提とすれば「対象は他の対象の関係である。」でも問題はないと考えています。

そして、このように①「一つでない対象はすべて少なくとも一つの特徴が互いに異なっている」と②「等しさとは二つの異なる対象に共通の特徴があること」を前提とすると、等しさとはある特徴を抽象(基準と)した場合の分類と同値であることも分かります。そうすると、「自分自身との関係で規定する」というのは、元の異なる対象間の関係をそれらから抽象された一つの特徴の関係で置き換え、表したものであるということも分かります。例えば、自然数はこのような構成を取っていると思います。それでは、0やiの「元の対象」は何かというと、自然数の関係であるx=1-1,x^2=1-2から生み出された0やiには「元の対象」はないはずですが、あまり意味はないとは思いますが、あると仮定して考えても矛盾は生じないとも思います。なぜなら、少なくとも0やiの「自分自身との関係」を表すときにも一度ではなく、二度三度と異なる0やiを書いたり考えたりせざるを得えないからです。
【以上、追記(2021年8月7日)】

【以下、追記(2022年3月9-10日)】
考えるには対象が必要である。という公理は、換言すると、「私は考えるゆえに(任意の)対象は存在する」という推論形式の命題であり、これはデカルトの哲学原理「私は考えるゆえに私は存在する」の結論部分の「私」を「対象」に拡張した命題であることに気付きました。
「私は考えるゆえに(任意の)対象は存在する」を哲学原理として、関係の必要性を導き、特徴を関係で捉えて対象が関係であることまでを導く、この演繹が重要であると再認識しています。
そして、デカルトは一般的な科学の対象から比例を抽象し、線と関係付け、代数で名付け、代数式で関係を表しましたが、この場合は、対象を点で、関係を線で表し、代数で名付けをしながら、対象を分解、あるいは、構築していくのが自然だろうと思います。
【以上、追記(2022年3月9-10日)】

【以下、追記(2022年3月25日)】
対象は関係であり、関係は命題として真偽の判定対象になることを考慮すると、対象の理解と命題の真偽判定は同値であり、対象と関係という枠組みと命題と推論という枠組みは、言葉と真偽判定が前者に付加されたのみで並行の概念であることが分かります。

対象は関係であること、関係は対象であること、独立した対象がないこと、これらはまったく同じことを命題と推論についても言えます。つまり、命題は推論であり、推論は命題であり、独立した命題はないことです。そして、この「独立した命題はないこと」は演繹の到達完全性の主張であり、デカルトが彼の哲学の核心としたところです。

ただ、デカルトは確実な演繹を踏めると考えましたが、ソクラテスが無知の知で主張するように一つとして完全な推論は踏めないことが分かります。それは、対象は関係であることから自明です。つまり、無限の関係の連鎖の中に真実性は保証されません。

【謝辞】
去る2022年3月23日に長年連れ添ってくれた愛犬ハラルド(愛称ハルちゃん、2008年3月7日生)が亡くなりました。この「対象と関係、関係論理」「対象と関係について、より詳細に」に示した考察は、私の貧弱な青年時代ゆえに彼の献身なくしては到底、書くに至ることはできませんでした。心の底よりハラルドに感謝いたします。この考察が何かしらの貢献を皆様に、社会に対してできるのであれば、それは毎日一所懸命に皆を愛して楽しく生きたハラルドのおかげ、彼の生きた証であると、本人はまったく知りもせずどうでも良いこととは思いますが、確信しています。思えば、彼の生きた時間の内に生まれここに結論を見た考察であったとも感じます。ぜひ、「考えるには対象が必要である」という哲学原理とそれに始まるこれらの考察が初発で何かしらの名付けが必要であるならばですが、そうであったとしたら当面「瀬端・ハラルドの原理」あるいは「瀬端・ハラルドの考察」と呼んで頂けると嬉しいです。ハルちゃん、ありがとう。
【以上、追記(2022年3月25日)】

公開日時:2018年12月13日
修正日:2021年8月7日
【以下、追記(2021年8月7日)】から【以上、追記(2021年8月7日)】を加筆しました。
修正日:2022年3月9-10日
【以下、追記(2022年3月9-10日)】から【以上、追記(2022年3月9-10日)】を加筆しました。
修正日:2022年3月25日
【以下、追記(2022年3月25日)】から【以上、追記(2022年3月25日)】を加筆しました。
最終修正日:2022年3月25日