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連載記事「論理について~デカルトに基礎を置いて~」No.3

連載記事「論理について~デカルトに基礎を置いて~」: 1 2 3 4 (現在、第4回目まで執筆しました)

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それでは前回の続きから始めたいと思います。

「デカルトの4つの規則」の一般的な解説

第一規則

デカルトは論理学の代わりに、デカルトの未知の発見のための論理学(真理探究のための方法)とも言える4つの規則を述べるのでした。方法序説p28に記載されている規則を一つづつ引用して解説したいと思います。

『第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく即断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。』

これが第一規則です。そして、この規則こそが最も大切な規則と言えます。つまり、自分が本当に正しいと認めたことだけで考えるということです。先生が言ったから、教科書に書いてあるから、偉い人が言ったから、ということで正しいとはみなさず、じっくりと自分の頭で考え、はっきりと正しいと確信を持てたことだけで自身の考えを構築していく、そう宣言しています。

はっきり言って、これはなかなか難しいことです。とにかく、時間と手間がかかり忍耐が必要になります。人が長い時間をかけて確かめてきた内容を自分自身で確かめ直していく作業でもあるからです。その上、先生や偉い人や友人とは異なる意見を持つことで時には嫌われ、教科書とは異なる意見を持ってしまえば受験に落ちる可能性もあります。それでも第一規則を守れますか?というわけです。

実際にデカルトは地動説を正しいと考えて、この方法序説の発表に合わせて解説を準備していたようですが、ガリレオがカトリック教会から異端審判を受けたことを知って発表を思いとどまったそうです。このような逡巡は、そもそも第一規則を守らなければ生まれもしないものです。

デカルトは、「私が明証的に真であると認める」ことだけで考えることをしないから真実を見誤り、間違いを鵜吞みにするのだと主張しているかのようで、逆に、ここにこだわれば沢山の苦労はあるけれども誰でも真理を探究する一歩目、そして最大の一歩を踏み出せると言っているかのように私には思えます。

日本社会に置き換えれば、漫然と続く忖度なんてありえない、ということです。「疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの」これだけを認めるという態度を批判精神といって、現代社会の成り立ちの基礎として社会システムの中に採用されています。「疑いをさしはさむ」=「批判」、それでも「明晰かつ判明に現れるもの」だけを受け入れる「精神」ということです。その過程を経なければ、「私が明証的に真であると認める」に足り得ないからです。したがって、昨今の日本の行政機構やジャーナリズムには近代合理主義がきちんと浸透していないと言ってよいわけです。

学術の世界に置き換えると、学術にも流行り廃り、評価の高い人低い人というのがあって、多くの学者も生活や研究のために地位やお金や名誉が必要になり、そのために流行っている、評価の高い研究を行います。それは、デカルトの時代も現在もあまり変わりありません。よくデカルトの時代は古代ギリシャ・ローマの学問の模倣が多かったので、デカルトのこのような主張が有効で、しかし、現代はそうではないかのような意見を聞くこともありますが、程度の差あれ、本質はまったく現代に通用します。

つまり、考えることが必要な社会の多くの場面で、このデカルトの第一規則が尊重されているかどうかがその社会活動の健全性という観点から、現在進行形で普遍的な価値を持ち続けていると言えます。

このことは、先に生まれた哲人ソクラテスの主張と共通しています。ソクラテスは、問答法を通して、完全に正しい根拠を持った主張をすることは人間にはできない(∵例えば、無限に問える)ことを示し、無知の知、人は自らが知っていないことを知るべきだと主張しました。そこから帰結されるのは、これが正しい、この価値が高いという人がいてもそれは絶対ではない、問いを続けてさらなる、あるいは別の答えを自ら見つけ出しなさい、という勧奨です。これは「疑いをさしはさむ」=「批判」=「問い」によって真理に近づこうとする点においては、デカルトとまったく同じことです。

ただ、一点異なるのは、デカルトは「真として受け入れ」、ソクラテスは「真として受け入れない」という点ですが、これも捉え方による僅少な差異で、大事なことは共に真理に近づくことを重視しています。

第二規則

それでは、第二規則に行きます。

『第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。』

第二規則から先は、この連載の後半でより具体的に解説したいと思いますので、ここでは一般的な解説を行います。

まず、急に難問という言葉が出てきました。なぜ難問が出てくるのかというと、デカルトはここで真理を探究する方法を述べているのでした。したがって、真理はまだ分かっていないのであり、自ずと答えの分からない問いを題材にするわけです。そもそも、第一規則によると、考えあるいは命題が真であるかとりあえず疑いをさしはさんでみるのでした、つまり、問うわけです。そこで難問が自ずと現れてきます。教科書や新聞のこの考えや記述は正しいのかな?というわけです。

そして、その際にデカルトは、ただ問いを発するのではなく、難問を分割せよというわけです。それも小さく、つまり、より簡単で単純な問題にです。それも部分に、つまり、その問題と無関係ではなく、関係していて難問に含まれているように見える問題にということです。

さらに、その分割は、よりよく解くために必要なだけでなくてはなりません。つまり、小問題を一つ一つ解決していくと難問が解けるように、解いても難問が解けないとか、結局解けるとしてもより難しいとか手間がかかるとかではいけなくて、過不足ない小問題の設定こそが理想的だと言うわけです。

一方で、その理想を満たしつつ、小問題はできるだけ多く設定した方が良い、それはおそらく、そうすればより簡単で単純な問題の積み重ねで難問を解くことができるだろうという要求もしています。

例えば、機械はなぜ動くのだろう、あるいは、生物はどうして生きているのだろう、なんて問題を考えてみると分かると思いますが、現代人が持っている物理的な知識は、概ねこの第二規則にのっとって構成されているということが分かると思います。つまり、どんどんと小部分に分解をして、各部品や部位がどう機能して、、という小問題を繋ぎ合わせた回答が思い浮かぶはずです。

第三規則

それでは、次に第三規則に行きます。

『第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。』

第三は、「思考を順序にしたがって導くこと」、つまり、考える順番が大切であって、脈絡なくあっちを考え、こっちを考えするのではなく、一つ一つ、順番を決めて考えていく、第二規則を踏まえると、順番に小問題を解決していくことです。

そして、その順序、順番の決め方も述べています。第一に、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めるというのです。それは、第一規則を満たすため、つまり、人にとって単純でもっとも認識しやすいものほど、「明証的に真であると認める」ことが容易であり、確実にできるからと考えられます。

この第三規則においては、順序における前に考えたことで第一規則によって「明証的に真であると認め」られた小問題は、順序において後に考える小問題の前提となるということが大事なポイントです。なぜなら、第一規則より、前に「私が明証的に真であると認め」たことについては、後に「わたしの判断のなかに含め」ることを前提にして、デカルトは順序を重視しているからです。

そのため、「少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき」と、すでに昇った低い階段を前提にして、高い階段へと到達している様を表現しています。低い⇒単純な小問題、高い⇒複雑な難問という対応があります。

つまり、この第三規則は第二規則で分割した小問題を解決していく、あるいは「明証的に真である」と確認していく思考方法を定めているということになります。第二規則で難問を分割し、あるいは、分割された問題をさらに分割し、、第三規則で順序を付けて難問の解決へと分割された問題を結合していく、というわけです。

ソクラテスの問答法により、問いによって根拠を求め続け、逆に、その根拠によって答えを導き直す、という流れと対応していることに注意してみて下さい。その思考方法をより精密化しているようにも感じられると思います。

第三規則の最後「自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。」ですが、勝手に順序を想定して良いの?、順序を想定してとはどういう意味か?という疑問が浮かぶのではないでしょうか。

自然のままでは互いに前後の順序がつくもの、つかないものについて、まず、考えてみましょう。例えば、数学の幾何であれば、三角形の合同を考える前に、三角形とは何か、三角形の頂点と辺とは何か、さらに、点とは何か、直線とは何かを考える必要があります。つまり、点⇒直線⇒三角形という順序で考えることになります。機械であればネジ⇒各部品、生物であれば細胞⇒各臓器のようなものです。これらは「互いに前後の順序がつくもの」と言えます。

一方で、例えば三角形を考えるときに、点と直線以外に、三点、つまり、3という数とは何かを考える必要があります。三角形と四角形などを区別するものはこの数、自然数だからです。あるいは、直線とは何かを考えた時に、直線とは点を無数に並べたものと定義したとすると、その無数と言う数とは何かをやはり考える必要があります。

それでは、点と自然数はどちらを先に考えるべきでしょうか。つまり、点と自然数のどちらが一方の前提となっているのかということなのですが、少なくとも「自然のままでは互いに前後の順序がつかないもの」のように思えます。

このように「自然のまま」の理解が浅いゆえか、あるいは深い理解を得たとしても「互いに前後の順序がつかないもの」はありえます。しかし、そのような対象間についても「順序を想定して進むこと」とデカルトは主張するのです。

それでは、なぜ「順序を想定して進む」のか?勝手に順序を想定して良いのか?ということへの答えですが、結局、順番に小問題を解決して到達するのは目標とする「難問」なわけですが、その分割された小問題はすべて「難問」に向けた思考の過程に組み込まれるわけです。その際に、ある小問題は別の小問題の前か後に必ず入る必要があるわけです。なぜなら、前にも後にも別の小問題がない小問題は、「難問」に向けた思考の過程と無関係な、その過程に組み込まれていない小問題になってしまうからです。これは第二規則に反する小問題の設定ということになります。

そうすると、すべての小問題はいずれかの場面で「難問」に向けた思考の過程、枝分かれした直線を想像してもらえれば分かりやすいと思いますが、、において他の小問題と直接の順序ではないにしても、枝分かれを介した間接的な順序を与えられることになります。それが並列という場合があるかもしれませんが、順序がまったくないとは言えないわけです。したがって、勝手に順序を想定して悪いわけでもないのです。想定した順序が違っていれば考え直すことを含めて、「想定して」と言っているのだろうと思います。

その上、何よりも人間の思考は同時に二つのことを考えることはできないのですから、一つ一つ小問題を解決していくためにも順序を想定することは理にかなっているとも言えます。あるいは、分割さえきちんとすれば、すべての小問題は前提と結論の順序付けをすることができるはずだという信念がデカルトにはあるのかもしれません。そこまでではなくとも、「自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間に」順序を付けられるまで第二規則の分割を行うことが、考えること、分析することの一つの醍醐味であることは間違いないでしょう。例えば、点と自然数を分解して、統一した前提、理論を作るなどできたら楽しいわけです。

第四規則

それでは、次に第四規則に行きます。

『そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。』

すべての場合に、というのは難問を検討するすべての過程においてということです。つまり、第二規則により分割し、第三規則により順序立て、第一規則により明証的に真であることのみを考える、この過程においてです。この過程において、見落としや隠れた前提(即断、偏見、疑い)、誤りの混入がないかを、「完全な枚挙と全体にわたる見直し」により防ぐというわけです。

一つでも見落としや隠れた前提、誤りがあれば、第三規則の順序立てた思考は破綻し、正しい結論までの道のりが途絶えてしまうことを考えれば、一つぐらいの過失では済まないというわけです。つまり、一つの誤りが結論「難問への答え」の誤りに帰結してしまうことを第四規則は前提としています。

以上でデカルトの4規則の解説は終了です。この4規則を固く守ることが、煩雑な論理学の規則を守ることよりも、真理探究のためには有用な方法である、とデカルトは考えたのでした。これが方法序説の核心部分です。

そして、この4規則の提示の後に引き続いて、なぜこの4規則が真理探究の方法になりえるのか、デカルトの気付き、所見を述べています。ここも方法序説、デカルトの哲学の核心部分と言えますし、引いては現代社会、学問、科学の基本とも言えるかと思います。

4規則に続くこのデカルトの気付き、所見、人間が認識しうるどんな真理もこの方法で発見、到達することができるだろうという主張について、次回は解説したいと思います。

数理論理学についての紹介と補足

あと、この記事では、あらかじめ話す予定としていた「現代の数理論理学の紹介、デカルトによる論理学への批判を援用し数理論理学の長所短所。」について、少し触れて終わりにしたいと思います。

この方法序説の文章の流れによると、デカルトは論理学の代わりにこの4規則を用いて哲学や数学、その他の様々なことを考察することにします。ちなみに、その第一として数学(あるいは現代的な意味では科学)、特に代数学と幾何学を対象として考察することによって、それらの学問が一般的に比例を扱っていることを見抜き、これを抽象して線に具象し、あるいは関係付け、さらに代数と結びつけることで座標表示を発見しました。これは空間の座標表示、あるいは、その他科学で用いられる座標という概念の創始であって画期的なことでした。

大事なことはデカルトにとってこの4規則は、真理探究の方法であり、論理学の総体自体はその用をなさなかったということです。

翻って現代では数理論理学という論理学の世界に革命的な変革をもたらした流れがあります。それは、カントールの集合の発見に始まり、ヒルベルトの公理主義の精密化、記号論理学の発展があり、数学の現代化や計算機科学(コンピュータ)の基礎になりました。

したがって、少なくとも科学の分野においては数理論理学の発展は、真理探究の方法として機能しているかのようにも感じられます。しかし、実際は、過去の論理学と同じでもちろん重要な規則はたくさん研究されていますが、煩雑で本当に真理発見の研究の様に足りる規則というのは少ない、というのが実情であると私は思いますし、デカルトの論理学批判はそのまま通用すると思います。

例えば、煩雑な規則は別としても集合や公理主義、記号論理学の基礎は現代的な正確さで数学を思考するには大いに役に立ちます。しかし、だからといってその正確さが細々とした演繹・帰納結果(ほとんどの研究者にとっては大偉業、私にとっては手にも届かない)を生み出すことの役に立つとはしても、デカルトが発見したような物事の根本的な真理発見、新理論の発見の役に立つとは思えません。

未だに、茫洋とした物事の大海から砂粒のような真理を掴み取るには、シンプルで確実なデカルトの4規則やソクラテスの問答法以上の提言はないように私には思われます。もちろん、この連載の後半のようにそれらを精密化することはできるとしても結局は、論理学の基礎としての輝き、本質はこの二つに凝縮されており、必ずしも洗練されたからといってより役に立つようになるとも言えない、この二つの方法論をきちんと身に付けることの方がより良い結果を得るに至るだろう、と私は思います。

公開日:2022年3月8日
修正日:-