最近の国政について
最近の国政を見ていると、非常に危うい印象を受ける。
安倍総理大臣の国を強く憂う気持ちや、真摯に背筋を正し国に倫理を取り戻そうとする姿勢は共感できる。ここ二十年で最も問題だったのは日本人がバブルでその美徳を失い、さらにその崩壊の反動によって自信を失ってしまったことであり、その意味では日本人が失っていた美徳や挑戦心を安倍総理大臣は持っている。現在の総理大臣の活躍はこのような長所が歓迎されているからであろうと思うし、納得もできる。
ただ、その内容が心配である。美徳に関して言えば日本の伝統的な価値に重きが置かれ、ともすれば人類が現在まで積み重ねてきた普遍的な価値が軽んじられる傾向がある。そのせいか権威主義的な不寛容と党利が近代民主主義を支える諸価値から逸脱し始めていると感じられる。
経済は公正、平等、自由な政治/制度の上に発展するものであり、これを実現することが政治家の経済に対する第一の貢献であろう。では、アベノミクスは3本の矢の3本目である構造改革を行ったのであろうか。1本目と2本目は一時的な経済対策であり、長期的な経済施策ではない。現在の株高が構造改革によるものであればバブルではないが、金融緩和と財政出動によるものであれば、それはやはり長期的な成長のきっかけにはなりえても、長期的な成長それ自体ではない。
日銀が国債を買い、市場に流れた資金がどれだけ良い事業に繋がっているのか、金融緩和を終えた後に財政収支を正常化する道筋はあるのか、非常に心配だ。金融緩和はインフレを取り戻すためというが、資金が金融市場に流れ込むだけ、企業は資金をためこむだけでは、今のところ円安誘導による景気対策にしかなっていないと感じる。結局、金融政策には限界があることを改めて認識する必要があると思う。
近年の構造改革が企業優先、労働者優先、既得権益の排除という議論の先に進めないのは、制度を改革してもそれを担える人材が育っていないからだと思う。根本的な話になるが、経済は詰まるところ人材がいかに育ち、その力を発揮できるかにかかっている。その意味では政治/制度/教育において日本の伝統的な価値を重んじることは、決して日本の未来をより良いものにするとは言えない。日本が永々と積み上げてきた伝統的な価値は多くの美徳を備えるが、一方でどうしても国、組織、人の権威に仕えるという傾向を脱し切れない所があるからだ。日本では、独立して万人に仕えるという徳がないがしろにされる場合が少なくない。国が大きく成長する時代には、必ず既存の組織に依存しない人材が生まれており、そのような人材が多く生まれなければこれからの日本経済も成長はしないだろう。
2015年6月26日