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国語と数学を学ぶ必要性と勉強方法

このページの内容は以下の通りです。
・現代における国語と数学の重要性
・数学を学ぶ必要性
・数学の勉強方法
・国語を学ぶ必要性と勉強方法

現代における国語と数学の重要性

人類の文明の発達の歴史は、国語(言語)と数学の発達の歴史といっても過言ではありません。人は言葉があるから物事を考えることができ、記憶することができ、他人に考えを伝えることができます。その意味で、玉石混交ではありますが、国語は人間にとって生きるための知恵の結晶とも言えます。そして、人は数えることができて初めて、物事の量を正確に比較することができるようになりました。数は、この世界の物質的な側面において、おそらく普遍的に成立するだろう法則の初めての発見であり、その知恵は、この世界の様々な個別の領域において実証的な類似の発見を促し、科学という学問の発展を後押ししてきました。

現代社会においてこの現実は何も変わっていないどころか、社会を支える様々な学問の基礎となっている国語と数学の重要性は、益々高まっています。ただ、各学問領域は高度に個別的に発達しているために、各学問が社会で果たしている役割も各学問の中で国語と数学が果たしている役割も、少し分かりにくくなっているかもしれません。つまり、学問が多くの専門分野に細分化され、門外漢からは理解しづらくなっているのです。

しかし、現代文明の発達をたどりつつ、学問の基礎、つまり国語と数学の基礎をきちんと身に付ければ、各学問への敷居は下がり、学問が社会にどのように活用されているのか、さらには各学問の研究を発展させる底力が付くことになります。現代文明の発達と学問の関係についてより詳しくは、本サイト記事のなぜ学び、何を学び、どう学ぶのか【目次】を参照してみてください。

数学を学ぶ必要性

そろばん以上の数学など使わないし、どうして数学を勉強する必要があるのかという意見をよく耳にします。このような意見に対して、私が内心思わざるを得ないのは、「現代で最も重要とされる考え方の一つを知らないのかもしれない」、「知らなければ何事もその重要性は理解できないのだから仕方ない」、ということです。数学の考え方あるいは数学の知識を知っていればアプローチが違っていたということは、大なり小なり仕事、生活の様々な場面であるのです。

数学は、算術ではありません。その大きな違いは、数学の考え方にあります。数学の考え方とは、つまり合理的、論理的に物事を考えるということです。合理的にとは、何かを考えるときに、それは「なぜ?」「本当に?」と疑問を持ち、誰もが納得の行く根拠や理由を確認しながら考えることです。論理的にとは、物事の全体を穴のないように多面的に分割し、それらの関係を整理して、主にその推論関係を中心にして考えることです。推論関係とは、物事の「○○が正しいから○○が正しい」という関係のことで、簡単に言い換えると根拠や理由を確認しながら考えることです。つまりは合理的に考えることと本質は同じです。

算術は様々な過去の文明に見られましたが、合理性や論理性を重んじた数学が生まれたのはギリシャ文明でした。おそらく、ギリシャ時代に自由を誇った人々は、他人の意見を自分が納得しない形で受け入れ、従うことを拒んだのでしょう。そのため、互いに納得のいく理由を示し、互いに議論をして話し合うことで物事を決めざるを得ませんでした。その過程で、相手を納得させる手法として、論理学やその他の学問が発達したものと考えられます。数学はその模範とされました。それは数学の持つ実証性、誰でも目の前でその正しさを確認できるという性質ゆえのことであると思います。ギリシャ文明の終盤に編纂されたユークリッドの「原論」は、誰でも認めざるを得ない仮定、例えば「同じものに等しいものは、互いに等しい」などを公理として、それらだけを根拠に推論をすることで、反駁の余地のない理論を構築しようと試みました。

時代を下って、近代においてはデカルトがこの数学的な考え方を一つの模範として、様々な迷信、誤解、偏見を排除した「合理的な物事の考え方」の一類型を提唱しました。それが合理主義として、実際に数学を用いるか用いないか、定量的か定性的かを別にして、完全ではありませんが近現代社会を支える一つの模範的な物事の考え方として通用しました。したがって、数学を通して「なぜ?」「本当に?」と疑問を持って物事を考える習慣を身に付けるということは、古代ギリシャの哲学者からユークリッドに、ユークリッドからデカルトに、デカルトから現代に受け継がれた、現代社会で必要とされる「考える力」を養うための最も筋の通った学習法と言えるのです。それはすでに、ギリシャ時代に学問所であるアカデメイアに「幾何を知らざる者、入るべからず」と掲げられていたという伝説と同じ理屈であろうと思います。

ちなみに、近頃の日本の教育改革で必要とされる「考える力」とは、ここで述べた「考える力」以外の何物でもありません。つまり、物事の本質を自由に自分の好奇心を大切にして、「なぜ?」「本当に?」と考えながら学習を進めて行くことが、漠然とした未知の世界を整理して正確に表現する論理性や、他にない新しい考え方を発見する独創性につながるのです。これをデカルトの言葉で表せばより高等な概念ですが「真理の探究」であり、デカルトの「真理の探究方法の序説」さらに略して「方法序説」という現代でも広く読み継がれている本の目標と一致するとまでは言えませんが、不正確ながらその目標を優しく表現していると言えるのです。

一方、数学の知識自体をどう活かすかという点については、「数えること」と相容れない分野は厳然としてあり、決してなくなることはありません。しかし、数学、コンピュータが非常に発達した今日では、「数えること」と相容れないはずの人の曖昧な認識を含めて多くの分野に「数えること」が進出しています。そして、「数えること」を導入することで劇的に分野が変わること自体が、科学の発達史でもあるのです。つまり、「数えられる」とは、「検証できる」と同じ意味であり、占星術を天文学に、錬金術を化学にしたように、仮定を検証できるようになることが、ある分野を科学的な学問へと変貌させてきました。

それは実証性、古代ギリシャで数学が誰でも目の前でその正しさを確認できるという性質を持つゆえに、論理的な学問の模範とされていたことと同じ理屈であると言えます。そこには、数学の持つ論理性の拡張と、数学の具体的な理論の拡張と、数学の理論の適用の拡張など、様々な段階・側面での数学と関連する学問との互いの飛躍的な発展が潜んでいます。特に数学の一部の天才、例えばガロアなどは人類が育ててきた論理性や実証性の枠組みすら乗り越えようとする、古代ギリシャの哲人たちのような強力な探究心を示すこともあります。さらに、科学において数学がいかに重要かを話しましょう。

ガリレオ、ニュートンが成功したこととは、物理現象の説明に数学を導入したことです。逆に、数学の視点からすると、個別的な物理現象の法則を数学に追加したとも捉えられます。どちらにせよ、物理現象を数えられるようにする新たな「枠組み(原理)」を発見できたことが画期的だったわけです。その発見の際には、「枠組み」に適用するべき数学が必要となります。それがニュートンの場合には、デカルトの広い意味での代数幾何、あるいは直交座標であり、そしてそこでニュートン自身が見つけた微分積分学だったと言えます。

このように、自然現象の説明のために数学が発展すること、他方、先にあった数学が自然現象の説明に適用されること、このどちらの場合もあり、両者には不可分な関係があります。それは、前述の物理の視点から見るか、数学の視点から見るかという視点の違いと似ていて、どちらであっても「自然において普遍的に成立する法則」を探究していることに違いはないのです。つまり、数学や科学という学問の大きな枠組みから見れば、既にあるもので説明できるならそれを使おう、あるいは、ないのであれば新た作って追加しよう、という違いに過ぎないわけです。しかし、大事なことは基礎となる数学が確立されずに自然現象を正確に理解することはできないということです。それは、少なくとも現代の学問では数学以上に自然現象を正確に理解するための表現がないからだと言い換えることもできます(*1)。例えば、ニュートンに続く偉大な発見をしたアインシュタインの場合にも、一般相対性理論の提唱には非ユークリッド幾何学の発展が不可欠でした。

以上のような学問の数学・科学への編入、あるいは学問における数学的基礎の確立の重要性は、物理に限った話ではないということです。20世紀に入り、大学制度が世界中で整うことにより現代数学は爆発的に発展しました。くわえて20世紀後半にはコンピュータが著しい発展を遂げることで、既存の自然科学の領域以外にも、社会科学のあらゆる分野に数学が適用されています。例えば、ウォール街が開発し始めた複雑な金融商品の価値計算には、伊藤清の確率論とコンピュータの計算能力が不可欠でした。さらに「自然において普遍的に成立する法則」において、「数えること」に次ぐ普遍性を持っているのではないかと感じられるほどの群論は、すでに「数えること」とは異質とも思える人類学にまでその応用が見い出されています。前者の確率論はパスカルとフェルマーによって順列と組合せから、後者の群論はガロアによって順列と置換から、そのどちらもが広い意味での場合分け、つまり、対象の関係の解析の中から発見された数学であることは興味深いことです。

さらに集合論や圏論、数理論理学などの数学の基礎が整えられてきた現代の数学の視点からすると、「順列(順序)」を「数えること(自然数)」の基礎に置くこともでき、「組合せ」を「数えること(自然数)」の拡張と捉えることもできます。群論の基礎の置換もユークリッドが提唱した「同じものに等しいものは、互いに等しい」という公理と密接に関係しています。このように数学がその機能を拡張しながら、「数えること」を中心としつつも「数えること」を超えて、「自然において普遍的に成立する法則」を探究する哲学(学問)として発展し、急速にその応用範囲を広げていると言えます。この流れは今後、さらに加速していくことになるでしょう。そもそも数学の英語訳mathematicsのギリシャ語源は「学ばれるものたち」という数に限定されていない言葉なのです。

ここまで物事の考え方における数学の重要性、学問や科学における数学の重要性を説明しましたが、現代社会において合理的に、論理的に考えることを必要とされない仕事や学問は少く、科学技術と切り離された生活もほとんどないと言ってよいでしょう。複眼的に考える視点も含めて、合理的に、論理的に考えられることは、どんな仕事においてもその成功を近づけるはずです。さらに、どのような職種であっても少なくとも間接的には科学技術と隣接しています。その際に、その人が身に付けている数学の知識量により、いかに必要な科学技術を理解して速く正確に使いこなせるかが決まり、さらに応用することができるのかが決まります。学問や社会を変えてしまうのと同じように、生活、仕事を劇的に変革する力が数学にはあるのです。

数学の勉強方法

どのような学問も同じですが、数学はことさら論理性を要求される学問です。あらためて論理性とは、一言で表せば考えが正しいか間違っているかを明確にすることです。主張と理由があった時に、主張が正しいか考え、理由が主張の理由になっているかどうか考え、理由が正しいかを考える。物事の全体を捉え、それだけではなく一つひとつの物事に分けて、それらが正しいか、間違っているか、自分で理解できているかを問い直します。このような勉強姿勢が、手間がかかるように見えて、結局は一番の近道になります。

初めは時間がかかっても、「なぜ?」「本当に?」「〜とは?」と基本概念を理解しようと試みてください。そして、分かるまで誰かに聞くか、本を調べるか、自分で考えるかすることが大切です。その姿勢さえあれば、あとは解説を読んだり問題を繰り返し解くうちに、数学の知識は自然に習熟していきます。分からないことをそのままにしてしまう人は、いつでも数学が分からなくなってしまう恐れがありますが、分からないことを放っておかず、分かるところまで疑問を持って戻れる人は、数学を得意になるための第一条件を満たしています。例えば、問題が解けなければ、どこかに基本概念を理解していない部分があるので、そこがどこかを改めて問い直します。その繰り返しで、自分が分かるところまで戻るしかないわけです。初めに理解することや途中で問い直すことを省略して、暗記やパターンで済ませてしまうと、何度繰り返し問題を解いても一向に習熟せず、応用や発展に進めずに勉強を諦めてしまう恐れが高くなります。

加えて基本概念を理解したと思っても、問題を繰り返し解く作業を怠ってはいけません。一見、最初に熟考して新しい分野の考え方を理解できたと思っても、実際には多くの理解できていない部分があるものです。さらに、問題を繰り返し解くことで、私のような凡人でも処理能力、計算力が向上します。数学は科学の核心であると同時に、それ自体が科学でもあるので、調査→仮定→検証(証明・計算)というサイクルで研究が進みます。そのため、調査・検証を短時間に正確に行える処理能力、計算力も大きな力になります。したがって、問題を速く正確に解く力を反復練習で養うことも大切なのです。ただし、ある種の受験勉強のように、独特で細々とした公式やパターンを暗記して、一向に先の単元に進まないような状況は、数学や科学の勉強としては発展性や革新性がなく大切な時間と労力の浪費としか言えない側面が大きくなっていきます。そこは科学史における停滞期に似たものでしょう。

さて、このように書くと厳格な勉強方法で肩が凝ってしまう、勉強をする気もなくなるという声が聞こえてきそうです。そこで私が提案する数学の勉強方法は、ガウスの言葉「私のように深く長く数学の真理について考えていれば、誰もが私のような発見をするだろう」にヒントを得て、次のように進めてはいかがでしょうか。まず、自分が興味の持てるテーマの本を図書館で探します。その際にお薦めなのは有名な数学者の名前が付いていてその数学者の研究を解説する本であったり、あるいは〇〇の流れや〇〇ガイダンスといった本です。そのような本であれば割と気軽に読める上に前者であれば狭くとも深く研究内容を知ることができ、後者であれば浅くとも広く分野を横断して学ぶことができるからです。そして、その本を読んでいて面白いと思ったページに来たらその本をいったん閉じてください。そして、時間を見つけて自室や図書館、公園のベンチなどの安全で一人になれる場所に行き、一応、人目が気になるのであれば飲み物でも飲みながらあるいは本やノートを開いているふりをして、ただ自分の頭の中でその面白いと思ったページの内容を楽しみながら考えてください。

これだけの気楽な勉強方法でほぼ間違いなく数学の能力は向上するはずです。有名な話でデカルトであれば寝坊のベッドの中、アルキメデスはお風呂でしょうか。ベッドや風呂は勧めたくとも一教師としては怠惰であったり危ないので勧めにくいのですが、そんなリラックスできる環境でこそガウスの言葉が生きてくるのは確かなことなのです。このような勉強方法で数学の楽しさを実感した後は、前述した厳しめの勉強方法も身に付けてみてください。仮に、本格的に勉強(研究)方法の勉強をしてみたいのであればソクラテスやデカルトの著作を読むと良いですし、刺激はかなり強いですがプロの数学者になるための勉強方法の雰囲気は河東先生のこちらのページ「セミナーの準備のしかたについて」を読んでみると参考になります。

以上のように、数学の勉強に必要なことは、「なぜ?」「本当に?」と問い直し、「〜だから」と理由を付けて整理することです。さらに、反復練習で計算力を向上させることで、勉強内容は明確になり、面白くなり、ぐんぐんと数学の力が伸びていくと思います。

より詳しく数学の勉強方法を学びたい、数学を通して考える力を身に付けたいという方は、私の運営する高校数学マスター ~高校数学を独学するための勉強法~を参考にしてみてください。L&M個別オンライン教室 ~論理と数学とプログラミングのオンライン授業~では、私の対話形式のオンライン授業もご受講いただけます。

国語を学ぶ必要性と勉強方法

人は言葉で考え、言葉で考えを伝えているので、国語はとても大切な教科です。ありとあらゆるものを国語で学べるのですから、ありとあらゆる考え方が国語の題材となりえます。したがって、つまるところ、国語ではさまざまな物事に対する理解、感性を問われることになります。もちろん、読解力、文章力には言葉の基礎的な力、語彙や文法への理解が必要となりますが、その先にはどれだけ広く物事を知り深く理解しているかが、読解力、文章力の土台に隠されています。そして、それは学問、仕事、何事を行うにしてもその人の能力を左右することになります。

このように書くと国語でも数学でも同じですが、自分が身に付けようとするものをすぐに自他の評価や価値と結び付けてしまうのが人の常ですが、そうならないための「物事に対する理解、感性」を磨くことが国語において最も大切であることを忘れないようにしましょう。それには「広く物事を知り深く理解」すること、つまり、人や社会の多様性を知り、何が最も大切なことであるのかを深く探究することを念頭におくと良いだろうと思います。知れば知るほど自分が知らなことの方が多いことも知ることになります。人には個性がありできることも目標も違って当たり前です。安易に自他の評価を定めることはできません。

さて、何よりもまず基礎的な勉強が大切です。つまり、字をきれいに書けること。十分な語彙を知ることです。字や図をきれいに書くことは、物事を整理して考えるために重要なことです。さらに、自分の考えたことを記録するため、人に正確に伝えるためにもやはり重要と言えます。語彙を増やすには、辞書をこまめに引くこと、分からない言葉を放置しないこと、これに尽きます。

そして、その上で乱読するのではなく、良書を選んで読解力を磨くこと。さまざまな考え方を知るために多読することもよいですが、多くの拙い考え方の本を乱読して拙い考えばかりが身に付いてしまっては本末転倒です。まず、熟読するのであれば目を見張るような知性のある本を選ぶように心がけるべきで、そのような良書を理解できるまで繰り返し読むことが大切です。基本的な考え方が磨かれていれば、さまざまな物事に対する理解、感性は自然と深まっているものです。世界でそして日本で、歴史に残る良書というのはそれほど多くはありません。現代社会で基礎的な分野、そしてその良書となれば本棚一段も要りません。

さらに、文法と作文方法を学ぶことが重要になります。考える力は文章に表れます。逆も真です。基本的な文法や作文の方法論を学んでおくことが、分かりやすい文章を書くこと明快な考え方をすることに繋がります。日本の学校教育では大学教育を含めて、作文(修辞法)をあまり学ばない印象がありますが、その分、言葉の扱い方、文章の構成方法を意識的に学ぼうとする姿勢が大切です。もちろん、一生懸命に作文方法を教えている先生方もたくさんいますが、そのような先生方に巡り合っていないのであれば、科学、法律、経済など様々な場面に応じた作文方法を解説した本がたくさん出版されているので、参考にされると良いと思います。

注釈:
*1 こちらの考えは物理学者の堀田昌寛先生の言葉(2023/07/21twitterより抜粋)『「なぜ自然の記述に数学が有効なのか?」という問うことよりも、量子力学などを表現するのに人間が使えるのは数学だけだった。数学言語が自然を記述するのに成功した例は確かに多いですが、意識されていないだけで、実は失敗した例も沢山ある気がします。単に成功例だけに人類は目が行っているだけで、普段の試行錯誤で言語化できていないことは、数学言語でも難しい対象であるという可能性があるのではないか、と感じます。』より示唆を受けたものです。何かを体験し感じることと、それを理性を持って他者に伝わる表現に落とし込むことには一つの谷があります。数学は「自然において普遍的に成立する法則」を新たに知ることであり、表現することでもあります。時に数学では、ある表現手法では表し得ない新しい対象を発見し、その新しい対象の表現手法を確立することがあります。数の発展はそのお手本とも言えます。ガウスは正多角形の定規とコンパスによる作図法の限界を示し、それに続いてガロアは5次方程式の解の表現手法としてべき根による解の公式には限界があることを示しました。さらに、彼は「曖昧の理論の超越的解析」という意味深なアイデアが多くの表現手法の限界を示す理論として活用できないかという模索を試みていたことを遺書に記しています。現代の量子力学では、因果関係や時空の概念について一般相対性理論以上に日常とはかけ離れた自然の様相が明らかになりつつあるようです。コンピューターの発展が著しい現代において本質的に曖昧(不完全)な人の認識の解析は一つの大きなテーマであり、ガロアが表現手法の限界を模索する中で「曖昧さ」に着目していたことは刮目すべき点ではないかと感じさせられます。堀田昌寛先生の言葉に話を戻すと、万有引力や相対性のように数式ではないビッグアイデアが現代の物理学では求められているのかもしれず、その一つの可能性としては、ガロアの着目のように論理学の領域にまで触れるような人の認識の曖昧さに関する理論を構築することで対象の超越的な解析が可能になる何らかのアイデアがそこに隠されているのかもしれません。その仕事は未来のガロア、ニュートンに任せることにしましょう。ただ、その芽はそこかしこの数学理論(例えばファジィ論理や確率論理)に表れていないとも限らない、そうも感じます。

目次
なぜ学び、何を学び、どう学ぶのか
1.道徳と宗教
2.現代社会の文化と文明
3.学問と論理、とくに科学と法律
4.国語と数学と英語
5.対象と関係、関係論理


公開日時:2014年9月11日
修正日時:2017年3月17日 章立てを追加。
修正日時:2017年3月22日 「なぜ学び」リンクと「目次」を追加。
修正日時:2017年9月19日 「数学を学ぶ必要性」「数学の勉強方法」に、大幅に加筆。
「そして、その上で乱読するのではなく」の段落に加筆。
修正日時:2019年3月15日 冒頭から「一方、数学の知識自体をどう活かすかという点については、「数えること」と相容れない分野は厳然としてあり、決してなくなることはありません。」まで加筆修正。
修正日時:2019年3月16日 冒頭から文末まで加筆修正。
修正日時:2023年7月31日 第一段落中「その知恵は、同様の発見をこの世界の様々な側面において、そして様々な個別の領域において促し、科学という学問の発展を後押ししてきました。」を「その知恵は、この世界の様々な個別の領域において実証的な類似の発見を促し、科学という学問の発展を後押ししてきました。」に修正。
第三段落を微修正。くわえて「学問が社会にどのように活用されているのか」を加筆。
第五段落中「論理的にとは、物事を多面的に細分化しそれらの関係を整理して、主にその推論関係を中心にして、簡単に言い換えると「〜だから」と理由を付けて、考えることです。」を「論理的にとは、物事の全体を穴のないように多面的に分割し、それらの関係を整理して、主にその推論関係を中心にして考えることです。推論関係とは、物事の「○○が正しいから○○が正しい」という関係のことで、簡単に言い換えると根拠や理由を確認しながら考えることです。つまりは合理的に考えることと本質は同じです。」に修正。
第六段落中、「実証性」を加筆。
第八段落中、「本の内容と一致するとまでは言えませんが、不正確ながらその内容を優しく表現していると言えるのです。」を「本の目標と一致するとまでは言えませんが、不正確ながらその目標を優しく表現していると言えるのです。」に修正。
第九段落、「一方、数学の知識自体をどう活かすかという点については、「数えること」と相容れない分野は厳然としてあり、決してなくなることはありません。しかし、数学、コンピュータが非常に発達した今日では、多くの分野に「数えること」が進出しています。そして、「数えること」を導入することで劇的に分野が変わること自体が、科学の発達史でもあるのです。つまり、「数えられる」とは、「検証できる」と同じ意味であり、占星術を天文学に、錬金術を化学にしたように、仮定を検証できるようになることが、ある分野を科学的な学問へと変貌させてきました。それは、古代ギリシャで数学が、誰でも目の前でその正しさを確認できるという性質を持つゆえに、論理的な学問の模範とされていたことと同じ理屈であると言えるかと思います。そこには、数学自身の拡張と、数学の持つ論理性の拡張と、数学の適用の拡張など、様々な段階・側面での数学の応用的な発展が潜んでいます。さらに、科学において数学がいかに重要かを話しましょう。」を「一方、数学の知識自体をどう活かすかという点については、「数えること」と相容れない分野は厳然としてあり、決してなくなることはありません。しかし、数学、コンピュータが非常に発達した今日では、「数えること」と相容れないはずの人の曖昧な認識を含めて多くの分野に「数えること」が進出しています。そして、「数えること」を導入することで劇的に分野が変わること自体が、科学の発達史でもあるのです。つまり、「数えられる」とは、「検証できる」と同じ意味であり、占星術を天文学に、錬金術を化学にしたように、仮定を検証できるようになることが、ある分野を科学的な学問へと変貌させてきました。」「それは実証性、古代ギリシャで数学が誰でも目の前でその正しさを確認できるという性質を持つゆえに、論理的な学問の模範とされていたことと同じ理屈であると言えます。そこには、数学の持つ論理性の拡張と、数学の具体的な理論の拡張と、数学の理論の適用の拡張など、様々な段階・側面での数学と関連する学問との互いの飛躍的な発展が潜んでいます。特に数学の一部の天才、例えばガロアなどは人類が育ててきた論理性や実証性の枠組みすら乗り越えようとする、古代ギリシャの哲人たちのような強力な探究心を示すこともあります。さらに、科学において数学がいかに重要かを話しましょう。」の二段落に分割して加筆修正。
第十一段落中、「その発見の前には、」を「その発見の際には、」に修正。「それが具体的には、ニュートンの場合には、デカルトの代数幾何、あるいは直交座標と言えます。さらに、「枠組み」と同時に、「枠組み」に適用するべき数学として微分、とりわけ積分を発見してしまったところが、ニュートンの卓越した能力を物語っています。」を「それがニュートンの場合には、デカルトの広い意味での代数幾何、あるいは直交座標であり、そしてそこでニュートン自身が見つけた微分積分学だったと言えます。」に修正。
第十二段落中、「このように、物理現象の説明のために数学が発展すること、他方、先にあった数学が物理現象の説明に適用されること、このどちらの場合もあり、両者には不可分な関係があります。それは、前述の物理現象の視点から見るか、数学の視点から見るかという単なる視点の違いと似ていて、どちらであっても「世界の物質的な側面において、おそらく普遍的に成立するだろう法則」を探究していることに違いはないのです。つまり、数学や科学という学問の大きな枠組みから見れば、既にあるもので説明できるならそれを使おう、あるいは、ないのであれば新た作って追加しよう、という違いに過ぎないわけです。しかし、大事なことは基礎となる数学が確立されずに物理現象を正確に理解することはできないということです。例えば、ニュートンに続く偉大な発見をしたアインシュタインの場合にも、一般相対性理論には非ユークリッド幾何学の発展が不可欠でした。」
第十三段落、「以上のような学問の数学・科学への編入、あるいは学問における数学的基礎の確立の重要性は、物理に限った話ではないということです。20世紀に入り、大学制度が世界中で整うことにより現代数学は爆発的に発展しました。くわえて20世紀後半にはコンピュータが著しい発展を遂げることで、既存の自然科学の領域以外にも、社会科学のあらゆる分野に数学が適用されています。例えば、ウォール街が開発した複雑な金融商品の価値計算には、伊藤清の確率論とコンピュータの計算能力が不可欠でした。さらに、「世界の物質的な側面において、おそらく普遍的に成立するだろう法則」において、「数えること」に次ぐ普遍性を持っているのではないかと感じられる群論は、すでに「数えること」とは異質とも思える人類学にまでその応用が見出されています。まさに、数学がその機能を拡張しながら、「数えること」を中心としつつも、「数えること」を超えて、「世界の物質的な側面において、おそらく普遍的に成立するだろう法則」を探究する学問として発展し、急速にその応用範囲を広げていると言えます。この流れは今後、さらに加速していくことになります。」を
「以上のような学問の数学・科学への編入、あるいは学問における数学的基礎の確立の重要性は、物理に限った話ではないということです。20世紀に入り、大学制度が世界中で整うことにより現代数学は爆発的に発展しました。くわえて20世紀後半にはコンピュータが著しい発展を遂げることで、既存の自然科学の領域以外にも、社会科学のあらゆる分野に数学が適用されています。例えば、ウォール街が開発し始めた複雑な金融商品の価値計算には、伊藤清の確率論とコンピュータの計算能力が不可欠でした。さらに「自然において普遍的に成立する法則」において、「数えること」に次ぐ普遍性を持っているのではないかと感じられるほどの群論は、すでに「数えること」とは異質とも思える人類学にまでその応用が見い出されています。前者の確率論はパスカルとフェルマーによって順列と組合せから、後者の群論はガロアによって順列と置換から、そのどちらもが広い意味での場合分け、つまり、対象の関係の解析の中から発見された数学であることは興味深いことです。」と「さらに集合論や圏論、数理論理学などの数学の基礎が整えられてきた現代の数学の視点からすると、「順列(順序)」を「数えること(自然数)」の基礎に置くこともでき、「組合せ」を「数えること(自然数)」の拡張と捉えることもできます。群論の基礎の置換もユークリッドが提唱した「同じものに等しいものは、互いに等しい」という公理と密接に関係しています。このように数学がその機能を拡張しながら、「数えること」を中心としつつも「数えること」を超えて、「自然において普遍的に成立する法則」を探究する学問(哲学)として発展し、急速にその応用範囲を広げていると言えます。この流れは今後、さらに加速していくことになるでしょう。そもそも数学の英語訳mathematicsのギリシャ語源は「学ばれるものたち」という数に限定されていない言葉なのです。」の二段落に加筆修正。
修正日時:2023年8月01日 注釈*1を追加。
第十六段落中、「論理性とは、」を「あらためて論理性とは、」に修正。「主張の理由になっているかどうか考え」を「理由が主張の理由になっているかどうか考え」に修正。「物事を全体で捉えるだけではなく、一つひとつのことに分けて」を「物事の全体を捉え、それだけではなく一つひとつの物事に分けて」に修正。
第十八段落中、「調査→仮定→検証(証明)」を「調査→仮定→検証(証明・計算)」に修正。「一向に先の単元に進まないような状況は、数学や科学の勉強としては不毛としか言えない側面が大きくなっていきます。」を「数学や科学の勉強としては発展性や革新性がなく大切な時間と労力の浪費としか言えない側面が大きくなっていきます。そこは科学史における停滞期に似たものでしょう。」に修正。
第十九段落 「さて、このように書くと~」と第二十段落「これだけの気楽な勉強方法で~」を追加。
修正日時:2023年8月02日 第二十四段落を追加。
第二十五段落、第二十六段落、第二十七段落を微修正。
最終修正日:2023年8月02日